米国の医療制度改革
大場 智満
当研究所顧問
国際金融情報センター理事長
シーシュポスの岩
ギリシャ神話に「シーシュポスの岩」という話がある。シーシュポスというのはコリントスの王で、ゼウスに睨まれて、死後、地獄で大きな岩を山の頂に運び上げる難行を命ぜられた。シーシュポスが岩を山頂近くまで運び上げると、麓まで落ちてしまう。このように永遠に山頂へ大きな岩を押し上げる苦行を繰り返した。このことから「シーシュポスの岩」は果てしない徒労を意味する。
話は少し飛ぶが、イギリスのエコノミスト8月号に「シーシュポスの岩」をもじった漫画が載っていた。シーシュポスはオバマ大統領になり、岩はREFORMと書いてあるが重そうな大きな塊り。その塊りをよく見ると、聴診器や、手術用具などが入っている。したがって、大統領はこの重い荷物を頂上まで持って行けないということを示唆している意地悪な漫画である。
医療制度改革
今、アメリカ大統領の最大の関心事は、医療制度改革をなしとげたいということである。他にも金融機関に対する監督・規制の強化などいくつかあるが、医療制度改革に全力を挙げ、議会を通さざるをえないという立場に置かれている。
オバマ大統領は、9月9日に、上下両院議員を前にして異例の議会演説を行った。そこで「医療制度改革を試みた最初の大統領はセオドア・ルーズベルトであったことは知られている。自分は医療制度改革を行った最後の大統領になりたい。」と話した。
この改革は、10年間で1兆ドル近い金がかかるが、大事な点は2つある。1つ目は、5千万人近い無保険者を公的保険制度の対象として国民の健康を守ること。2つ目は、家計、企業、政府が高騰する医療費を削減することである。
ヒラリーの挫折
この演説の後、壇上から降りた大統領が、ヒラリー国務長官に歩み寄ったのは、ヒラリーが苦労したことを知っていたからであろう。
クリントン政権の第1期、ヒラリーは大統領夫人として医療制度改革に強い関心を示した。1994年に大統領夫人としてメディケア(高齢者医療保険)改革の責任者となり、改革に力を費やしたが挫折した。
1994年当時、議会の公聴会で、薬価基準や診療報酬の不合理性について、ヒラリーはユーモアあふれるスピーチをした。
「大腸がんに効く特効薬は、ワン・カプセル6ドルで売られている。この特効薬は犬や猫の大腸がんにも効く。犬猫にはいくらで売っているか。わずか6セントだ。
フィラデルフィアの2つの病院で、心臓のバイパス手術の手術費を比べてみた。すると、A病院では21,000ドル。B病院ではなんと84,000ドル。ヒラリーは2つの病院で手術した人の平均余命を調べてみた。結果は、同じであった。同じアメリカ人でありながら、バイパス手術の値段が、どうしてこうも違うのか。(注1)」
ヒラリーの医療制度改革は挫折した。ルービン財務長官の回顧録によれば次のような事情があったという。「医療制度改革は、主要法案を成立させるのに好都合とみなされている政権初年度に、経済政策と競合したばかりでなく、1993年の後半に、NAFTA(注2)とも競合した。その夏に経済計画法案が可決されたあと、大統領は、医療制度改革とNAFTAのどちらかを優先させるか選択しなければならなかった。両方の政策に取り組むとなると、手を広げ過ぎて詰めが甘くなり、共倒れになる危険性が高かったのだ。」
結局、クリントン大統領はNAFTAを最優先で進めると決断した。
- (注1)大場智満「世界の首脳・ジョークとユーモア集」中公新書ラクレ47~50頁。
- (注2)NAFTA(North American Free Trade Agreement):北米自由貿易協定。米国、カナダ、メキシコ3国間の自由貿易協定。
正念場を迎える医療制度改革
このヒラリーの経験もあって、オバマ大統領は、一番政権に力がある大統領の任期最初の1年半のうちに、医療制度改革を行った最後の大統領になろうと考えたのである。議会では共和党は反対だが、民主党の中にも公的医療保険制度は包括的な医療改革法案から外した方がいいという意見も出ている。したがって、これから年末までの間にどのように議員たちを説得するか、オバマ大統領の真価が問われることになる。冒頭の意地悪なエコノミスト8月号の漫画は、失敗を示唆しているようで感心しないが、失敗すると支持率は急落するのではないか。