生活福祉研究通巻62号 巻頭言

閑谷学校で学ぶ

鈴木 正慶
当研究所所長
中部大学経営情報学部教授

春まぢか、岡山から山陽本線で小一時間かけ、備前・吉永駅より山間の静かな地にたどりついた。そこには、閑谷(しずたに)学校の正門があり、その両側の花(か)頭(とう)窓(まど)のある棟がこの地を訪ねる者を暖かく迎え入れてくれる。一歩校内に入ると、そこが三世紀前に創設された教育の場の全容を一瞬にして伝えてくれるような感動を与えてくれる。

三方がなだらかな山林に囲まれた広々とした空間の正面の奥には儒教の祖、孔子をまつる聖廟があり、その入口の石段の左右には、中国の孔子林の種から育った一対の楷(かい)の大木が、今にも新芽を吹き出しそうにゆったりと構えている。正面の西側に赤錆色の備前焼瓦で見事に葺かれた入母屋の国宝の大講堂が静かに、堂々と立っている。かつてここでは、勉学心旺盛な一般の青少年である学生が、一と六のつく日に、儒教の教科書の四書五経の講釈を受け、孝悌忠信の道を唱える読誦(どくしょう)の声が絶えなかったと言われている。

講堂の裏には、学習をする習(しゅう)芸(げい)斎(さい)、そして教師や生徒の休憩・談話室としての質素ではあるが整った美しさを感じる飲室もある。その先には庭を隔てて土蔵の文庫があり、かつて120箇所もあった岡山藩の手習所で使われた書籍・教材なども集められ、大切に所蔵されている。敷地の西隅には、教室や学生寮としての学房があるが、そこでの万一の火災が、東側にある講堂や文庫、聖廟などに延焼しないように小高い火(ひ)除(よけ)山(やま)を築き、防災・建築的にも注目すべき木目細かい工夫がこらしてある。敷地を囲む石塀は、高さと幅が2mほどの柔らかな曲線を描く蒲鉾状の石組みで、一周約800mの外と内を分ける穏やかな境界線となっている。

このような、教育の場とそこにある数々の建物や施設をゆっくりと見聞すると、この教育機関をその時代に創った人々の強い気概と大きな優しさが伝わってくるような気がする。

閑谷学校は、岡山藩主・池田光政が寛文10年(1670年)、英才・津田永忠に命じて設立された。光政は、その前年の寛文9年には武士の子弟が学ぶ岡山藩学校を創めているが、ついで儒学に基づく領民・庶民のための閑谷学校を創ったのである。これが、現存する教育施設では世界的にもめずらしい、わが国で最も古いといわれる庶民のための学校のはじまりである。

その後、父光政に代わって藩主になった池田綱政は、永忠に命じ貞亨4年(1687年)より14年の歳月を掛け、日本三名園の一つ岡山後楽園を完成させた。そして、この四季爛漫の林泉回遊式大庭園は、藩主の静養の場、賓客接遇の場として使われ、池田家の栄華を示す象徴の一つとなった。しかし綱政は庶民教育にはあまり関心がなく、永忠は主な公職を離れ閑谷の地に居を移し、光政の意志を受け学校の永続のために、生涯を掛けてその運営に携わった。 その間、永忠は閑谷の地を利して、講堂、飲室、聖廟、文庫、校門(鶴鳴門)、学房、校厨門、石塀、などの新・改築をすすめ現在の施設の原型をつくり、社会の秩序をもたらす儒家思想である、仁・礼・孝・忠・中庸等を庶民へ唱える人材と環境を整えた。そして、講義は若い学徒だけではなく、一般にも開放され、多くの村民が傍聴していたといわれている。

永忠は宝永4年(1707年)没するが、その後本校は幾度も衰退、閉鎖されている。しかし、そのたびに光政と永忠の強い志が伝わったかのように再興され、これまでに、数多くの秀才・逸材を輩出しているのである。そのなかには、大阪の緒方洪庵の主宰する適塾で蘭学と西洋医学を学び江戸幕府で歩兵奉行をつとめ、維新後は工部大学校長、第三代学習院院長、清国特命全権公使となった大鳥圭介や、父親が創業した倉敷紡績の社長を引き継ぎ、中国電力をはじめ、大原奨農会農業研究所(現岡山大学資源生物科学研究所)、大原社会問題研究所、労働科学研究所、倉敷中央病院、大原美術館を創設した大原孫三郎などがいる。また、作家の柴田錬三郎、‘赤とんぼ’の作詩者の三木露風、備前焼人間国宝の藤原啓なども本学で学んでいる。

国の改革を目指す新しい法案が次々と国会を通ろうとしている昨今、わが国の教育や福祉(年金等)の将来は依然不透明である。教育や福祉の原点ともいえる、人々の心の拠りどころとなり、社会を律する閑谷での教えは、我々の今後を考えるために忘れてはならないことの一つと思われるのである。そのことは、閑谷を訪れれば自然に分かることでもある。