生活福祉研究通巻59号 巻頭言

サッチャーのユーモア

大場 智満
当研究所顧問
国際金融情報センター理事

サッチャーとジンギスカン

EUの経済統合が着々と進んでいるときに、時のサッチャー英国首相がベルギーのブルージュで講演を頼まれた。演題は「EUの統合について」。演説の冒頭、サッチャー首相は次のように言ったという。

「本日の司会者は大変勇気のある人だ。この私にEU統合のメリットについて話をしろという。それはあたかもジンギスカンに『平和的共存の美徳』について話をしろというようなものである。」

サッチャー首相のEU統合への冷ややかな対応は、ブレア政権下の英国が共通通貨EUROの導入に踏み切れない遠因になっているのかもしれない。

「色即是空」を英訳すると?

サッチャー首相のユーモアで思い出すのが、渡辺美智雄大蔵大臣の「色即是空」の演説である。話は1982年に遡る。

9月のIMF・世銀総会で、大臣は演説を「色即是空」で結びたい意向であった。当時、国際金融局長であった私は、ワシントンに集まる各国の蔵相や中央銀行総裁には到底理解されないと思い、強く反対した。

しかし、渡辺大臣は、その年5月のアジア開発銀行の総会でアジアの大蔵大臣達に話したら皆感心して聞いていたと言い張る。通訳は何と訳したのかときくと、直訳が良いということで“Color is sky, sky is color”としたという。

渡辺大臣が頑張るので、もう少し良い英訳がないかと課長達に探してもらったところ、禅にくわしい鈴木大拙教授の英訳が見つかった。

“What is form, that is emptiness. What is emptiness, that is form.”であった。

そこで、IMF・世銀の大蔵大臣の演説では、“Color is sky, sky is color”の後に、この鈴木大拙の訳を加えることにした。

その後、ワシントンから帰国したところ、サッチャー首相が来日していた。鈴木善幸総理に赤坂の迎賓館に挨拶に行くようにとアドバイスされた。

渡辺大臣と迎賓館に赴くと、サッチャー首相が「ワシントンでは面白い演説をしたそうですね」と話題にされた。東京駐在の英国大使が知恵をつけたのであろう。たまたま英文の大臣演説を持っていたので、その最後のページをサッチャー首相に示した。サッチャー首相は声を出してゆっくりと読み上げた。読み終わるとサッチャー首相は、首をかしげながら「何を言いたいのですか」と訊いてきた。

渡辺大臣は少しあわてて、「我々政治家は国民に苦しい選択を求めることもある。政治家にとって大事なものはハートです」と答えた。サッチャー首相は首をふり、指で頭を指しながらこう言った。「困難の解決に大事なのはハートではありません。Brainです」。

その日の夜、鈴木総理がサッチャー首相を迎えて晩餐会を開いた。全閣僚が参加し、鈴木総理が1人1人紹介した。渡辺大臣の番になると、サッチャー首相が声を掛けた。「私はこの人を知っています。“Oh, Minister Emptiness!”」。色即是空の演説の経緯を知らない通訳は立ち往生してしまった。

大臣を辞した後も渡辺氏はよく外遊した。当時ロンドン駐在の東京銀行首脳だった高垣氏は、日本の政財界の有力者がサッチャー首相との面会を取りつけることはなかなか難しいのに、渡辺氏だけは申し込むとすぐにサッチャー首相と面会できると聞いていた。

長年、疑問に思っていたが、私の話を聞いてようやく理由がわかったという。「サッチャー首相にしてみれば、Minister Emptinessが来たと喜んで会っていたのでしょう」。

通じなかったユーモア

橋本龍太郎大蔵大臣のユーモアがサッチャー首相に通じなかったという記憶もある。サッチャー首相が橋本蔵相に「私は今まで5人の大蔵大臣にウィスキーの税金が高いので引き下げるよう求めてきたが、実現しない」と主張したとき、橋本蔵相はこう答えた。「あと2人の大蔵大臣と話せば、実現するでしょう」。

蔵相の脳裏には、“ラッキーセブン”があって「あと2人」と言ったのだろう。しかし、ラッキーセブンは本来米国の野球用語のため、サッカー文化である英国のサッチャー首相には通じなかった。素直にあと2人大臣が代わるまでは要求が実現しないと受け取ったサッチャー首相は怒ってしまったという。これは、サッチャー首相にユーモアが通じなかった例である。