ヨハネ・パウロ二世
大場 智満
当研究所顧問
国際金融情報センター理事
主のみもとへ
ヨハネ・パウロ二世が主のみもとへ帰られた。
CNNに映し出されるバチカン広場に集う信者の涙をみて、カトリックではない私も心を打たれた。
ローマで4年を過ごしたことに加え、法王が愚息の頭に手をおかれ、祝福を与えてくださったこともあり、その逝去の報を聞いて感無量のものがあった。
ローマの人々は法王のことを親しみを込めて「パーパ」と呼んでいた。アクセントを間違えて「パパ」と発音すると「親父」になってしまう。イタリア人と話をしていて会話が混乱するのは、発音を間違えたときである。
1978年にヨハネ・パウロ一世が法王になられたとき、聖ヨハネと聖パウロ二人の名を自らにつけるというのは、二人の聖人に対して失礼ではないかと思ったりした。しかし、二聖人の名をとるのは畏敬の念が強いからだという聖職者の説明に納得した。
ヨハネ・パウロ一世は早逝された。名前が長過ぎるから法王在位が33日と短かかったのではないかと思った。しかし、ヨハネ・パウロ二世の26年間にわたる長い法王在位は、卑見の浅薄さを示してくれた。
改革を進めた法王
法王はロシア正教などのキリスト教の他宗派や、イスラム教、ユダヤ教など他宗教との融和に力を尽くされた。
湾岸戦争時、バグダッドで撃墜されたイタリアの戦闘爆撃機のパイロットが連合軍の最初の捕虜になった。パイロットはローマ法王の尽力で救出された。それは、法王が他宗教との融和に力を尽くされていたからではなかろうか。
ガリレオの審問は教会の間違いであった、と認めたのもヨハネ・パウロ二世である。もっと前に過ちを認めていたら、ブラウン著の「天使と悪魔」は別のストーリーになっていたかもしれない。
バチカンの車のナンバープレートはS.C.VでROMAとともにナンバープレートとしては特別なものであった。ROMAはフルネームのナンバープレートで、ムッソリーニの配慮といわれている。通常はナポリがNA、ミラノがMI、フィレンツェがFIと2文字である。
S.C.VというナンバープレートはSanta Cittã del Vaticano(聖バチカンシティー)の略である。心無いローマっ子は、これをSe Cristo Vedessi(もしキリストがご覧になったら)と読んでいた。聖職者やバチカン市民の多くがデラックスな外車に乗っていたからであろう。
最近このような皮肉が聞かれないのは、ヨハネ・パウロ二世が進められた改革と質素な生活によるからなのであろう。
法王と中東問題
法王はイスラエル・パレスチナの和平にも力を尽くされた。エルサレムも訪れておられる。イスラエル・パレスチナ問題の解決なくしてイラクを始めとする中東問題は解決しないという認識を持たれていたのではないか。
ブッシュ大統領が就任直後、イスラエル・パレスチナ問題の解決にプライオリティーをおいていれば、今のイラクの混乱はなかったかもしれない。
戦いの空しさを知りつくした法王が、武器ではなく「愛だけが平和をもたらす」と説いてこられたことを忘れまい。